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1575年(天正3年)、それまで三河山間部の小豪族に過ぎなかった奥平家の名が世に知れ渡る事となりました。
織田・徳川連合軍が、武田軍を壊滅に追いやった長篠設楽原の戦い。この日本の歴史を変えたと言われる激戦で、家臣である鳥居強右衛門の決死の活躍などもあり、信長公から最高武勲と讃えられたのが奥平家第二代の貞昌公です。
この時、信長公から「信」の一字を与えられ、以降、名を「信昌」とあらためました。
また信昌公は、家康公の長女である亀姫をめとり、娘婿の名に恥じぬ鬼神の働きぶりで幾多の戦果を上げ続け、徳川幕府創設のためおおいに貢献しました。
その後、家昌公をはじめとする子供たちの親に劣らぬ働きもあり、奥平家は、徳川御連枝として譜代の名門の地位を確固たるものにしたのです。
その後時を経て1717年(享保2年)。前年将軍職に就任したばかりで、幕政改革に意欲を燃やす、第八代将軍徳川吉宗公から西国の抑えを期待され、奥平家第七代奥平昌成公が豊前中津城に入城しました。丹後宮津から一万石加増の十万石での栄転でした。
吉宗公は、家康公のひ孫にあたり、偉大な曾祖父を崇拝してやまなかったと言います。「諸事権現様(家康公)定めのとおり」と、政治手法も家康公を手本にしていた程です。同じ家康公の血を引く、昌成公へは期するものがあったのでしょう。
以後、日本の蘭学の発展に貢献した奥平家第十一代昌高公をはじめ数々の名君を輩出し、1871年(明治4年)に奥平家第十五代昌邁公が廃藩置県を迎えるまで、中津城は、154年間に渡り奥平家の居城として城下町中津の繁栄を見守り続けたのです。
廃藩置県の際には城内のほとんどの建造物が破却され、御殿だけが小倉県中津支庁舎として存続する事になりました。
しかし、1877年(明治10年)の西南戦争の際、その御殿も焼失してしまったのです。
それから敗戦と言う激動の時代を経て1964年(昭和39年)、旧藩主奥平家が中心となり、中津市民からの寄付も合わせて天守閣が建造されました。
以来、中津市の郷土の誇り、観光のシンボルとしての新城は、昭和、平成と時を重ねてきたのです。
そして2011年、奥平家の魂を引き継いだ運営会社の元、新生中津城(奥平家歴史資料館)は、様々なイベントや企画を実施し、中津市民のために新たな人生を歩み始めています。
1575年(天正3年) | 長篠の戦い 奥平家では後々、家運を高めたこの戦を「開運戦」と呼び、現在では戦いに勝利した5月21日頃に戦勝記念である「たにし祭り」が行われています。 |
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1576年(天正4年) | 織田信長公が安土城築城 |
1582年(天正10年) | 本能寺の変 |
1584年(天正12年) | 小牧・長久手の戦いで、奥平家第二代信昌公が武勲をあげる。 |
1600年(慶長5年) | 関ヶ原の戦い 戦後、信昌公初代京都所司代に就任。西軍有力武将である安国寺恵瓊を捕縛。 |
1602年(慶長7年) | 信昌公が美濃国加納へ十万石で加増転封となる。 |
1616年(元和2年) | 奥平家第四代忠昌公が曾祖父家康公から白鳥鞘の鑓(中津城に展示)を拝領する。 |
1717年(享保2年) | 奥平家第七代昌成公が中津十万石の領主として入城。 |
1746年(延享3年) | 奥平家第八代昌敦公が豊前国中津藩第二代藩主となる。 |
1752年(宝暦2年) | 昌敦公、農政改革を開始する。 |
1758年(宝暦8年) | 第九代昌鹿公が15歳で豊前国中津藩第三代藩主となる。訴平賦均録という法令集を編纂し、藩政に尽力する。 |
1780年(安永9年) | 奥平家第十代昌男公が豊前国中津藩第四代藩主となる。 |
1786年(天明6年) | 奥平家第十一代昌高公が豊前国中津藩第五代藩主となる。 |
1810年(文化7年) | 昌高公の指導のもと蘭語訳撰が導入される。 |
1822年(文政5年) | 昌高公によりバスタールド辞書が出版される。 |
1825年(文政8年) | 奥平家第十二代昌暢公が豊前国中津藩第六代藩主となり、新田開発や藩法改正などの改革を積極的に行なう。 |
1833年(天保4年) | 奥平家第十三代昌猷公が豊前国中津藩第七代藩主となる。 |
1835年(天保6年) | 昌猷公が黒沢庄右衛門を登用した藩政改革で、専売の強化を行なう。 |
1842年(天保13年) | 奥平家第十四代昌服公が豊前国中津藩第八代藩主となる。 |
1853年(嘉永6年) | 黒船来航 |
1855年(安政2年) | この頃から砲台建設などの藩政改革に着手。 |
1863年(文久3年) | 城内に「松の御殿」を築く。 |
1868年(慶應4年) | 奥平家第十五代昌邁公が豊前国中津藩第九代藩主となる。 |
1869年(明治2年) | 明治維新の精神に従い藩政改革を行う。 |
1871年(明治4年) | 廃藩置県により中津城は廃城。小倉県中津支庁舎となる。 昌邁公は維新の功により賞典禄二千両を受けて伯爵となる。 |
1877年(明治10年) | 西南戦争により中津支庁舎であった御殿が焼失。 |
1964年(昭和39年) | 旧藩主奥平家が中心となり再び中津城が築城される。 |
2011年(平成23年) | 新たな運営会社により新生中津城が誕生。「第一回中津城人間ひな飾り」、「第一回中津城たにし祭り」、「第一回中津城薪能」、「第一回中津城写生大会」など注目のイベントを次々と開催。家康公のひ孫である忠昌公をモデルにした中津城の公式キャラクター「おっくん」も誕生。 |